神様、あなたもお人が悪い!
私は88年間の過去を振り返り、実際に経験した命拾いの出来事を記憶をたどりながら回顧録としてまとめました。そして、出来事の全編を通じて感じていることは神にたいする尊厳がますます高まっているということです。もし、皆さんが私と同じような経験をされておれば、是非ご案内下さればとても嬉しいです。
まずは、私の回顧録をご覧ください。
はじめに
教徒 、異教徒を問わず、敬虔な教徒にとって、この題名、なに、これ!って、お叱りを受けるかもしれません。もしかしたら、神の冒涜?以外の何ものでないかも。 私が、これから述べることは自分の生き様が、ある意味において、正しく「神 がかり」に思えたから、このような題名にしたので-す。神様は、窮地において私をお見捨てにならなかった、いつも救いの手を差し伸べられた、ということです。私が、この世に生を受け、あと何年生きる、いや、生かされると記述したほうが適切かもしれませんが、これまでに体験した数々の出来事を、順を追って、思いつくまま書き下ろしてみました。若干、具体性に欠ける部分もあるかもしれませんが、偽りのないドキュメントの執筆に心がけたつもりです。ただ、筆者の拙劣な文書能力に基づく表現の曖昧さは否定できませんが、このことは、敢えてご容赦ねがいたいと思います。そして、このエッセイを通じて、筆者の生き様に少しでも触れていただき、生命の尊さに共感していただければ幸いです。
私 の 命拾いの記録、題して
「神様、あなたもお人が悪い!」
If you live in an English-speaking country, you can view it ,if you touch this line.
第 1話 母の洗濯
第 2話 貧困でも救えた命
第 3話 戦争がいけないのか!
第 4話 トンボ採り
第 5話 鯉釣り
第 6話 運命の分かれ道
第 7話 蛤採り
第 8話 ペンキ職人
第 9話 まな板の鯉
第10話 ガンの告知
第11話 大腸内視鏡検査
第12話 ガン罹患の家系だから避けられないのか!
第13話 扁桃を巡っての盥(たらい)回し
あとがき
(参考)Copilotにより要約された内容
はじめに
教徒 、異教徒を問わず、敬虔な教徒にとって、この題名、なに、これ!って、お叱りを受けるかもしれない。もしかしたら、神の冒涜?以外の何ものでないかもしれない。 私が、これから述べることは自分の生き様が、ある意味において、正しく「神 がかり」に思えたから、このような題名にしたのである。神様は、窮地において私をお見捨てにならなかった、いつも救いの手を差し伸べられた、ということである。私が、この世に生を受け、あと何年生きる、いや、生かされる(と記述したほうが適切?)か、わからないが、これまでに体験した数々の出来事を、順を追って、思いつくまま書き下ろしてみた。若干、具体性に欠ける部分もあるが、偽りのないドキュメントの執筆に心がけたつもりである。ただ、筆者の拙劣な文書能力に基づく表現の曖昧さは否定できないが、このことは、敢えてご容赦ねがいたい。そして、このエッセイを通じて、者の生き様に少しでも触れていただき、生命の尊さに共感していただければ幸いである。
第1話 母の洗濯
いつものことながら、その日も、母は、近所の仲間と共に、住んでいる家の すぐ近くを流れる小川(祝子川)に、洗濯するために出かけた。家の近くには、何本もの空を貫く煙突がひしめきあった大工場を有する旭化成があるにもかかわらず、小川を流れる水は澄んでいて、付近の住人はそれを飲用していたらしい。 周りは小高い山に囲まれ、そこから流れ出る水は清く、近所の主婦達にとって、絶好の洗濯の場所であり、世間話のできる憩いの場所でもある、いわゆる、祝子 川は、生活には欠かせない貴重な存在だった。笊に入れてきた洗濯物を、母は、いつものように、洗濯板を使って洗濯している間、私をタライに入れ、浅瀬に浮かせ、流れないように川岸に打ち込んだ杭に 繋いだ。母は、他の仲間と世間話に夢中だった。この状態で、暫く時間が流れた。やがて、洗濯が終わり、母は洗ったばかりの衣類を、タライに入れようと、今 まで繋いでいたタライに目をやったが、そのタライが見当たらない!母は悲鳴をあげ、死に物狂いで、洗濯仲間と私の入ったタライを探し始めた。小川の流れは 穏やかでも、すでに、洗濯場所の周辺やその下流にも、タライは見当たらない。 もっと、目の届かない下流に流されてしまったのか!母はそのように思った。川 岸の叢の中をバタバタと走り回ってタライを探し続けてくれる仲間、川下に走り出す仲間、みな必死だった。ややしばらくして、幸運にも、仲間の一人が、私を発見したのである。私が発 見されたその場所は、洗濯場所の50メートル下流に懸かった古い祝子橋の、川岸に近い橋脚の、さほど長くない流木であった。私は、その流木にしっかりと捉 まっていたのである。そして 、駆けつけた仲間に助けられたのだ。 母の、そのときの嬉しさとこみ上げる涙を想像すると、今、まさに命の扉を閉めようとしている母の姿が哀れである。しかし、どうして 、私は、流木に掴まっていたのだろう。その真実は誰も知ってはいない。まさに「奇跡」だったのか。この出来事が、実は、この後に続く、「九死に一生を得る」出来事のほんの序幕だったのかも知れない。
第2話 貧困でも救えた命
幸せに暮らしていた私の頭部に、異様なふくらみがあった。3歳ぐらいだった のかな。原因がわからないまま、数日が過ぎたある日、あまりの痛さのため泣き 叫ぶ私に気づいた母は、私の記憶にない祖父(母の父)に頼んで、病院に私を連れて行った。当時の病院は、遠いところにあり、交通機関もない。しかも、私の家計は、治療代を払えるような状態ではなかった。そこで、祖父は、事情を話して、近所から借金して、治療代に充てようとした。 祖父は、私をおんぶして、自転車に乗り、道亡き道を、猛スピードで病院に急行した。 そのときの私の病名は、わからない。多量の濃が頭部に鬱積していたため、医師は、直ちに手術を行った。オペのあと、医師は、祖父に言ったそうである。「手遅れになるところだった!」と。 今でも、私の頭部に手をやると、5センチを超える傷跡が生々しい。いくら髪が伸びても、その傷跡は決して隠すことができない。 時折話す母の思い出話の「お前は運がつよい!」という言葉は、私の心から決して消え去ることはないと思う。
第3話 戦争がいけないのか!
私には、全く記憶のない父と母の生活。当時、父の職場(旭化成レーヨン部) は、現在も、生産品を変えて存在する。私は、母が父と過ごした日々のことは一 度も耳にしていない。また、母は、それを話そうとは決してしなかった。私が64歳になるまで。 ある過ぎ去った日、母(86歳、全盲)は、電話に出ようと、立ち上がった際、重心を失って、転倒し、左手首を骨折してしまった。10日が過ぎて、事情を叔母(母の妹)に知らされ、5時間の道程をドライブして、駆けつけてみると、 意外と元気で内心ほっとした。その日の、夜の母の告白?は、想像を絶するものだった。以下、少し詳しく 、そのことについて述べたい。 私の記憶にない父、誰も教えてくれなかった父の青春時代?母は、淡々と話す。 母が何故、今はいない、父の行状記を話す気になったのか、わからない。しかし、 母の告白は、どうみても、今の母の心境から判断して、偽りで固められたものであるとは疑う余地もなかった。 父の話をする前に、私の父の思い出は、終戦の年、軍服に身を固めて、髭茫々で玄関に立った姿より、それ以前の記憶はない。母の告白の内容は、母が婚姻した土地、延岡市から始まる。母の父との出会いは、衝撃的であった。母は、父に暴力で犯されたのだった! そして、私が誕生した。入籍後の状況の推移は、母には屈辱に耐えられない生活だった。愛情のない家庭に対する夫の行状は、必然と他の女性にも及ぶ。複数の女を作る。家庭にお金をいれない。女たらしの典型的なパターンである。そんな虐げられた生活が、何年も続いた。そして、日本は太平洋戦争に突入し、父は、旭化成から、警察官に転職して、北朝鮮に渡った。 警察官として、単身、渡朝した父の就業ぶりは、母からは何一つ聞かされていない。耳に入るのは、後を絶たない、女狂いの話だけ。今にして思えば、愛する息子に、「あなたの父は、こんな人よ。」と誰が言えようか… 母の青春時代は、暗く、むなしく、そして、絶望的だったのである。しかし、母は、たくましく生き続けた。決して愛することのできない夫の子のために。父の現地で支給される金銭は、特別待遇で、高額だった。そのほとんどが、異国人の女性に貢がれる。内地に決して送られてこなかった。母の話では、3回ぐらい、 渡朝したらしい。5歳の私にとってのピョンヤンの記憶は、路地の石塀しかない。 父の妻子に対する暴力は、この時期には恒常的だった。母は、会うたびに、こんな話をする。絶望のあまり、「帰りの船から、ドックから、何度、海に飛び込んで親子で死んでしまおうと思ったか」と。しかし、母はこの時も耐えた。すでに 、 心身ともに疲れきった母の心と身体は、失明を余儀なくされたのである。 母の手を引いて、上下船する5歳の私の命を奪うことはとてもできなかった、と母は、述懐する。そのような過去の父を、60歳を過ぎても知らされなかったことは、私としては何とも忍び難い。 そんな母と父には、私に生き写しの二人の子供(私の弟)が、後になって生まれている。私の本名は、健一、次男は、康二、合わせて、健康一二だ。次男は、 私の説得も及ばず、25歳の若さで、事態に耐えられず、精神病院で首吊り自殺した。三男の健吾は、生活苦のため、母の懇願もむなしく、救護院に預託され、その後、成人して所帯を持ち、身障者を妻にした。だが、その妻の命も短かった。 子供にも恵まれずに他界した。 父母の離婚時期は、私の記憶にはない。父は私だけを引き取り、宮崎の実家に戻った。 宮崎での私の生活は、母と別れた悲しさに明け暮れていた。小学校に上がった私を、年に1,2回、父の両親、兄弟、姉妹の目を盗み、汽車を利用して、学校にいる私に会いに来てくれた母と叔母(母の妹)が、今も脳裏に強く焼きついている。そして、学校の近くの野原で、味わったりんごや高価なバナナの美味しさは、神様の贈り物なのか! 母への執着は子としての自然感情である。母は、惜しみなく高価なバナナを振舞ってくれたのであった。 会いに来てくれた母たちと一緒に、父方の家族に断りもなく、何度か生まれ故郷に行ったことがある。このとき、母の目は、失明寸前だった。連れ戻しに、父の姉妹が訪れる。この繰り返しが、暫く続いたことは今も忘れることはできない。 私に対する父の暴力、虐待が過熱化したのはこの時分からだったと思う。父の私に対する暴力は、躾とは程遠いもの、憎しみ丸出しの「狂鬼の沙汰」であった。 家の中で、誰かに名前を呼ばれて、大きな声で「はい!」と言わないと、いきなり父が強い力で、私の衣服を脱ぎとり、井戸まで引きづって行き、冷水を頭から浴びせる-冬の極寒に。泣いても無駄だった。また、居間の囲炉裏には鉄製の火箸が突き刺してあり、この火箸で思い切り頭を殴られる。その度に吹き出る真っ赤な血があたりに飛び散る。こんな生活が毎日繰り返される。さながら地獄であった。もし、この幼年期に、自分の命を落とす術を私が知っていたなら、今の私は存在しなかったであろう。 毎晩のように、無意識に深夜、床を抜け出し、所かまわず放尿した。ある深夜、 突然、庭にいる自分に気づく。どうして、いま自分が外にいるのかがわからない。 完全な夢遊病であった。それは、日夜、父に虐待された結果であったのかも。このような生活は、中学校へ進学しても続いた。父の暴力が収まったのは、高校に進学した頃だったと記憶している。今にして思えば、愛情もない妻を暴力で犯し、 そして、生ませた子供に、優しさなんて微塵もなかったのだ。何度も、冬の時期、家を飛び出して麦畑で過ごした。そして、死ぬことだけを考えた。だが、私の自殺志向は、さほど強力ではなかったのかも。また、生きる希望なんて観念もなかったことも事実である。私には、ただ、父の一方的な暴力と虐待のみが存在し、私を自殺に追いやるだけの拘束力はなかった。次男の康二とは、ときどき密会し、布団の中で、「一緒に死のう!」と囁きあった。だが、私はそれをどうしても決行できず、後になって、弟だけを死に追いやってしまった。弟は、今、故郷の美しい山山に囲まれた、日当たりのよい小高い丘の墓地に眠っている。私たちをこんなに苦しめたものは、一体何なのか、神様もお人が悪い!
第4話 トンボ採り
私は、トンボを採るのが得意だった。今は存在しない、家の前を流れる小川は、 フナ、トンボの宝庫だった。春先になると、フナがよく釣れた。そして、初夏になると、トンボ採りが始まる。釣りは、小川の岸から、自家製のさおで水に浸からないで釣れるから安全だが、トンボ採りは、非常に危険である。竹箒を両手に持って、頭上にかざし、川の中に入る。川は浅いところ 、深いところがあり、進路の判断は、足の感覚に委ねられる。浅い場所ほど動きが機敏で、トンボの多量捕獲につながる。あるとき、毎年のことだが、トンボを夢中で追いかけていて、深みに足を取られた。頭が水没した。私は、夢中でもがいた。泳げなかったのだ。泥水を飲み込む、吐き出す、この動作を繰り返して、手足をバタバタさせ、やっと、深みから脱出することができた。顔面蒼白の自分を意識する。川には誰もいない。この危険な行為を、何故毎年繰り返していたのか。楽しいからである。よもや、死ぬなんて思ってはいないから。死の恐怖はなかったのかも。 この時代、子供の遊びで今のような徹底した監視体制もなく、保護対策もなかった。また、親も子供の遊びにはあまり気を使わない時代であった。従って、子供の死ぬチャンスは、時と場所に関係なく、大いに存在したのだ。運が悪ければ、 お陀仏。だが 、私は死ななかった。悪運が誰よりも強かったのかも知れない。そうとしか言い様がない。トンボ採りで、命を落とした同級生は決して少なくはなかったから。 捕らえた、メストンボ(トンボの正式名は、銀ヤンマ)は、オスを捕獲するのに利用した。1匹のメスで数10匹のオスが採れた。その楽しさは経験したことのない人には到底わかるまい。 オスの採り方はいたって簡単である。メスの羽を傷つけないように、羽の付け根あたりを綿糸で三重巻きにしてしばり、その糸を50センチの長さの細竹の先端に結びつける。これで準備万端。後は、川岸に下りて、オスの到来を待つ。オスは決して、団体では来ない。1匹ずつ、時間の間隔を置いてやって来る。オスの到来を確認したら、メスを繋いだ細竹の下の部分を握り、頭上で時計回りに、円を描いてゆっくり回し始める。メスの姿が目にはいたオスは、急降下してメスを捕らえて交尾する。V 字になった尻尾の先端をメスの頭のうしろにひっかける。 この状態の感触は、回していた細竹の重さで確認できる。徐々に細竹を地面に下ろして、オスを捕獲するのである。つながったオスは、メスから離れようとはしない、いや、離れられないのである。したがって、オスの捕獲率は、よほどのことがない限り、パーフェクト。だから、面白いのである。 夏の風物詩、それは、子供達のトンボ採りに象徴された。
第5話 鯉釣り
私の釣り好きは、今に始まったことではない。小学校に入学した頃だったと思う。その日は、春うららかな日差しの強い午後であった。時は太平洋戦争の真っ只中、 敵機襲来を告げるサイレンが毎日のように鳴り響いていた頃の話である。 釣り友達に、鯉の大物が釣れる場所を聞き出した。私の気持ちは弾み、台所から流れ落ちる水溜りの周辺を移植ごてで掘り起こして、捕らえた縞ミミズを木箱に収め 、かねて、いつでも釣りに出かけられるように、準備しておいた竿を3本小脇に抱え、独り目的地の小川へ急いだ。小川まで、走って30分ぐらいの行程であった。 小川の両脇は、鞘竹が生い茂っていて、水藻の多い、いかにも大物が釣れそうな雰囲気の場所である。この場所には以前何度か来たことがあった。現場に到着して、ポイントを決めた後、急いで、餌をつけ、3本の竿の糸を垂らした。待つこと5,6分、1本に当たりがきた。棒浮がコツコツと3回上下運 動を繰り返した途端、水中に強く引き込まれた。大きい!当たりからして、間違いなく鯉だと思った。 糸がピーンと張る。魚の動きが激しく、容易に手前に手繰り寄せることができない。5分ぐらい時間が過ぎて、魚の動きが急に鈍くなった。よし、採れる!と、思ったその時、サイレンの音が鳴り響いた。間隔を空けての5回の吹鳴である。 空襲警報だ! 近くに取り付けられた拡声器から、なおも、警報が鳴りつづける。どうしよう! もうすぐ、間違いなく鯉が自分のものになるのに。だが、そのときは、サイレンが告げる危険意識の方が優先した。何もかもかなぐり捨て、走った。走った。我が家に向かって。 ようやく家の前の、道路脇に植えられた、はぜの木の前にたどり着いた。その時、 何と、日の丸の旗をつけた10機を超える戦闘機の編隊が超低空で飛来してきた。私は感動して 、両手を頭上に振りかざし、万歳!万歳!と大きな声で叫んだ。ところが、戦闘機は、急にバリバリと機銃を撃ってきたのだ。私は、びっくりして、走り回りながら避難場所を捜した。早く隠れようと、本能的に駆け込んだのが我が家の炊事場であった。 炊事場入り口の戸を開けて、中に飛び込んだ途端、板壁がバリッ!と大きな音を発した。そして、板壁の開いた穴から急に陽光が差し込んできた。 撃たれた銃弾の1発が、私の炊事場を射抜いたのだ。それは、私に向けて発射されたのかどうかわからなかった。その銃弾は、幸いに私には命中しなかったのである。 暫くして、あたりは静かになった。今まで、敵戦闘機の襲来で、地響きを立てていたのが嘘のようだった。後でわかったことだが、撃たれた銃弾は、壁裏の竹薮に突き刺さっていた。そのあと、家族が入口の戸を半開けにしてくれた防空壕に飛び込んだのであった。その翌日のことは、私にとって、決して忘れることのできない出来事であった。 私は、それが、私の、いや、私たち家族の運の強さを物語る、実に象徴的な出来事であったと、今でも思っているのである。
第6話 運命の分かれ道
私は、そのとき7歳だった。空襲警報が発令され、敵の空爆が一波、2波、三 波と段階的に繰り返されて数時間が経った。その間、防空壕は、激しい地震の連続であったが。ようやく静かになった。 暫くして、かすかに警戒警報が耳に入ってきた。終わった!空爆にはすっかり慣れきった、家族の顔に安堵感が漂う。だが、その時、家族の誰かが、大きな声で叫んだ。「油くさい!」 入口の戸を開けた途端、強い油の燃える匂いが皆を襲った。その油の匂いは、数 キロ離れた宮崎の市街地から流れてきたものだった。家族の全員が、防空壕から飛び出して、市街地の方向に目をやると、何と 、一面、大きな火柱が立っていたのである。 油の匂いは、敵機が投下した焼夷弾によるものだったのだ。時刻は確か夕時だったと記憶している。防空壕のすぐそばに建つ母屋は、無事であった。防空壕の周りの茶園が所々くすぶっていた。防空壕の周りを見回っていた叔父が、突然悲鳴をあげた。「来るな!逃げろ!」 家族の者は何が起こったのか、さっぱりわからない。防空壕の入口の反対側に、 異様な、黒色をした金属の塊が突き刺さっていたのだ。後でわかったことだが、何と、それは大型の爆弾であった。そして、それは不発弾であることがわかった。「神様、お守りください!」みんな声に出して必死に祈った。 後日、軍の処理班がこの不発弾を処理してくれたということであった。爆弾の威力は、この当時誰も知る由がなかった。しかし、終戦になり、四季が何度も移り変わって、目前に広がる田園のあちらこちらに、半径2,30メートルの大きな沼が点在している風景を見ることで、当時の落下された爆弾の威力がどんなものであったかを、思い知ることができる。この日の衝撃的な出来事は家族の者の心から、決して消え去ることはないと思う。そして、生きるか死ぬか、その選択に おいて、私たちの力の及ぶところではなかったことを。私の運の強さは、その後も続くのである。
第7話 蛤採り
猛暑の続くなか、今でも日本列島の海水浴場は、昔ながらの焼き蛤をお客に振 舞う所が多い。飽食時代の今と違って、終戦後の日本は極度の食糧難で、どこの家庭でも、その日その日の食料を確保することが困難であった。私の家も例外ではなかった。 家の傍に1反足らずの農地はあったが、連日連夜、敵の空爆を受け、作物は育つ暇もなかった。親達は、食料を求めて、毎日のように町に出かける。当然、食料が手に入る日もあれば、そうでない日もある。町には闇市が横行する。争いもあちこちで起こる。食料難を象徴する現象だ。 私の蛤採りが始まったのは、そのような背景があったことは事実である。いわゆる 、今の自給自足のはしりのようなものだった。事実 、私の家庭は、食料の確保において、私の手助け?の恩恵があったことは否定できないだろう。3キロの量を超える川えび、10羽を超える小鳥(溝さざえ)の収穫、とりわけ、今から述べる蛤は、私の家庭にとっては大きな支えだった。 私が、小学3,4年生の頃の話である。数人の友と近くの一つ葉海岸に出かけた。私は、いつも一人で行動するが、この日は友達二人が一緒だった。海岸は、ちょうど干潮で、波打ち際から4,50メートルまで、海底の砂があらわに見渡せる状況であった。 私達の蛤採りは、道具は使わず、足で当たりをつけて捜すのである。いわゆる足裏の感覚の勝負である。海岸一帯には、大小の石ころも多かった。従って、蛤を探し当てるには、かなりの熟練が必要だった。自慢ではないが、私の足は、背が低い割には、人一倍大きくて、今でもそのことでは、逆に劣等意識で凝り固まっているが、この時ばかりは、そうではなかった。 波が押し寄せる所まで進出したとき、足裏に大きな反応があった。「やったー!」 すかさず、友人に叫んだ。「あったぞー!」私の後方で蛤を探していた友人が駆けつけて来た。「ここ、ここ掘れ!」水深20センチぐらいの所を二人で懸命に手で掘った。あった!あった!みな形のよい蛤である。大判だ。足に触れる蛤は、2個や3個ではない。まるで、蛤の巣を思わせるほどの量である。一個一個手で捕まえる度に、蛤は汐をふく。あまりの嬉しさのあまり、気が遠くなりかけた。これほどの量の蛤が、一箇所で見つかったのははじめてであった。家から持って来た、トウマイ袋(収穫した稲を入れる麻袋)に、採った蛤をわしづかみに袋に詰め込んだ。袋は、見る見るうちに膨れ上がり、袋の半分ぐらいになった。 ふと、気が付くと、海岸の潮位が、足首までに上がっていた。ちょっと気にはなったが、そのまま蛤を掘り続けた。採れる、まだ採れる。ハーハー言いながら、袋に蛤を詰め込んだ。このとき、私には不安な気持ちがよぎった。こんなに採って、果たして、家まで 運んで帰れるかなと。このとき、袋は、ほぼ、約7割の蛤で充ちていた。重さは、30キロを超えていたかもしれない。そんな不安が、次の瞬間、かき消された。気になっていた潮位が、腹部あたりまで迫っていたのだ。「いかん、やめよう!」友人が叫んだ。「汐がくるぞー!」 友人は、新しく変わった波打ち際に向かって、水をかき分けながら突進した。私は怒鳴った。「おーい!これを運ぶぞ!」手にもったトウマイ袋は、海水に浸って、少しは軽くなったが、それでも一人で運ぶには無理であった。「待て!」 怒鳴ったが駄目だった。友人は、もう陸に上がっていた。私は、一人でもいいから運んで帰ろうと必死に頑張った。しかし、潮位はますます上がって来る。もう、私の胸あたりまで迫っていた。いかん、これじゃ、危ない!溺れる!いつものいやな予感が頭をよぎった。手に掴んでいた、袋の端をとうとう離してしまった。このとき、足はもう底には届かなかった。完全に海水に支配されていたのである。 幸運にも、私はこのとき、泳ぐことができた。いつもの水に親しむ生活パターンが私をそうさせたのかもしれない。蛤を諦めて、陸に向かって泳ぎ始めた。 だが、おかしい!今まで見えていた陸がない!見えるのは、なんと、水平線だ! 流されている!私は、とっさにそう判断した。後ろを見た。陸だ!懸命に陸に向かって進むのだが、いっこうに陸が近づかない。おかしい!そこで、私は気づいた。ダシだ!ダシに巻き込まれている!そう思った私は、沖のほうに向かって流れる汐に身を委ねた。何故?ダシとは、地元では、急激な汐の流れのことで、大きなカーブを描く。いったん沖合いに出た汐は、また海岸線に向かって戻ってくる潮流のことで、大人の間でも恐れられていた。ダシに遭遇したら、潮流に身を任せ、無駄な労力をセーブしなければならない。 いきおい、陸に向かって必死に泳ぎ続けると、体力を消耗して、溺死するのは必死。このダシで、私は、多くの友を失っているのだ。 思った通り、潮位に乗った私は、少しずつに近づいていった。暫くして、足が、 砂を得た。だが、まだ流れが速い。疲れきった私は、何度も転んだ。 そして、ようやく、私は、陸にたどりつくことができたのだった。 友の姿は、海岸にはすでになく、私一人だけの帰途となった。だが、私は命を救われた。蛤は失ったが、命だけは失わずにすんだ。もし、私が、ダシの特性を知らず、あの時、無我夢中で陸を目指して泳ぎつづけていたら、すでにこの世の人ではなかったに違いない。食料難の当時は、生きるための努力を極限の状態まで行う。文字通り、生きるか死ぬかの闘争であった。
第8話 ペンキ職人
昭和31年、私は、高校を卒業した。学校の紹介で、地元の薬品会社に就職した。注射用のアンプルを造るかたわら、県内の薬店・薬局に薬を届けるのが私の仕事であった。 薬の配達は、各人に割り当てられた自転車に、所要の注文品を積んで出かける。半日コース、一日コースがあって、後者は、片道4時間の行程であった。 入社して、1回目の給金の支給があった。月給で、月6千円が約束だった。だが、 月給袋を開けてみると、なんと5千円に満たない。おかしい。学校の紹介では、6千円が約束だったのに。一緒に入社した友人も同じ金額だった。 おい 、約束が違うぞ、辞めよう!てことになり、結局、皆、学校から紹介されたこの薬品会社を辞めてしまった。 次に 、就職したのが、塗工会社である。ある日、看板を描きたいと父に相談したら、父は、地元の著名な書道家に連絡をとり、弟子入りする手筈を整えてくれたのだが、私の拒絶で、その話もご破算に なり、結局、中学時代の友人(現在、看板やさん)の紹介で、ここに入社したのである。先輩達の厳しい指導を受け、なんとか、自分の書いた看板が電柱や、店先に取り付けられるようになったが、看板の注文が無くなると、筆を休めることを余儀なくされ、同じ会社のペンキ塗装部門に回された。 この当時、塗装部門は、活気づいていた。新築の一般家屋、建設用の鉄骨・骨材、映画館、バー、キャバレー、喫茶店など、あらゆる分野の塗装工事に及んでいた。 賃金もよかった。残業手当も予想以上のものがあった。 この会社で、命にかかわる出来事が、予期しない状態で起こったことが、この第8話のテーマである。そのことについて、述べたい。 塗装部で手がけた最大級の入札は、水力発電所の隧道内部の塗装であった。職人の手が足らず、私達、看板部員が動員された。勿論、宿泊を伴った長期間の出張である。 時期は、初夏だったと思う。資機材と共に現地に到着してみると、現場周辺は、 雑林と巨木などに囲まれた、まさに、大自然そのもの、やあー、これは、えらい 所に来た!というのが 、そのときの印象であった。 目を上にやると、巨大な隧道が2本、山の傾斜にそって、地面に伸びている。その隧道の長さは、視界を草木で遮られ目測できなかった。 仕事の手順は、まず、合金でできた隧道内部の錆びた部分の除去から始まる。 いろいろな機材を用いて、数日間は赤錆との戦いである。一日の仕事が終わって、 鏡を見ると、まるで自分がでなくなる。肌の奥まで浸透した錆は、石鹸でも容易には落ちない。刺激性の強いラッカーシンナーが使われる。これに弱い人は実に可哀相である。といっても、何度も用いていると、しまいには慣れっこにはなるが、いわゆる、これが、シンナー遊びの元祖であろうか。 錆の除去が終わった。次は、錆止めの塗装開始である。赤茶色の塗料が、職人の手によって刷毛で塗られる。塗る順序は、隧道の上方より下方に向かって進行する。隧道の傾斜は、塗装するのにロープ等を必要とはしないのだ。左手にペン カン(ペンキを入れた缶)を持ち、右手に刷毛を持つ。両足に力を入れて踏ん張り、重心が安定するように保つ。もし、このバランスを失うと、隧道の最下部に 滑り落ちてしまうのだ。非常に危険な仕事である。しかも、隧道の内部は、薄暗く、判断を誤ると大変である。数日かけて、この作業が続く。 二人横に並んで、塗る範囲を決め、相手と呼吸を合わせながら、手際よく下方へ、下方へと進むのである。そして、その日の仕事は、予定通り終了した。 下塗りの乾燥には2,3日を要し、いよいよ上塗りである。上塗りは、下塗り とは逆に、隧道の下方から上方へ進んで行く。タービンに接続する部分は密閉さ れていた。従って、作業のための進入口は、メートル上方の開口部からである。ちょうど一人だけ出入りできる開口部から、材料を携行して、塗り登って行くのであった。 この時は私一人だけの作業であった。ラッカーシンナーの溶剤で薄めたグレイ色 のラッカーを、右手に持った刷毛で塗っていく。単純な動作ではあるが、塗り残しのないように、丹念に塗らなければならない。強烈なラッカーシンナーの匂いが鼻をつく。刷毛を持つ手は、休めることなく絶えず動かさなければならない。 そのうちに、徐々に疲労感に襲われてくる。全身は汗まみれである。少し、休憩を取り、また同じ動作を繰り返す。何度か休憩を取った後、再び塗り始めてから、どのくらいの時間が経過したの だろうか。 ふと、目が醒めた。気がつくと、傍には誰もいない。頭がボーッとして痛い。どうしたのだ?ラッカー塗りをしていた自分が、何故ここにいる?よく見ると、私は、作業を始めるときに入った開口部の下にいたのだ!仰向けになって。どうして?空になったペンカンが足元に転がっていた。 状況がわかるのに、さほど時間はかからなかった。私は、ラッカーを塗っている最中に意識を失ったのであった。直接の原因は、ラッカーシンナーを多量に吸 い込んだためであった。そのため、意識を失い、最下部に滑り落ちたのである。 そして、開口部から、隧道の上方に急激に吸い上げられる空気を吸って、私は、意識を取り戻したのだった。もし、私が滑落したとき、開口部の蓋が閉じられていたなら、私はどうなっていただろう?果たして、意識を取り戻すことができたであろうか。 強烈なラッカーシンナーを多量に吸い込むと、一種の急性アルコール中毒を惹き起こす。この状態が長時間持続すれば、命の保証はないのではないか、そう思ったら、背筋が冷たくなる出来事であった。この出来事は、公にはならず、私一人 の体験として、今も私の記憶の中に生きているのである。
第9話 まな板の鯉
昭和32年、看板の製作のため、宮崎の航空自衛隊・新田原基地に派遣された。 航空機を格納するハンガーに文字を書き込むことと、滑走路エンドに方位を表す 数字を描くのが工事の内容であった。当時はまだ、航空機は配備されてはいなか った。どのような機種が配置され、どのような任務をもった部隊が来るのか知る由もなかった。しかし、はじめて目前に広がる格納庫と長い滑走路を見たとき、私の心は躍った。よし、俺も自衛隊に入ろう!そう決意した私は、その日のうち に、父に相談して、入隊の承諾を得たのである。 入隊試験の合格通知を受け取って、半年後、航空自衛隊の教育隊(山口県の防 府)に入隊した。日夜、訓練は厳しく、入隊して1ヶ月もたたないのに除隊する 隊員も多かった。 教育隊の訓練を終え、英語教育隊、通信教育隊を経て、最初の任地は、北海道 の根室にあるレーダー基地であった。当時、基地は、米空軍から自衛隊に移管される直前であった。多くの米将兵が 部隊を運用しており、自衛隊員もクルーに編入されての共同任務であった。根室の酷寒は、南国育ちの私には、非常に耐えがたく、勤務以外の余暇には、 ウイスキーのボトルに明け暮れた。その結果が、脱肛の手術であった。切除して はならないものを当地の市立病院で切除されたのである。当時のレベルの低い医 術を窺い知ることができる。排泄の度に、不憫な思いで、その後の私の生活は続いており、今なお、持病の 名のもとに、定期的な処置を欠かすことができない有様である。根室に始まった私の自衛隊生活は、その後、転々と任地を変え、千葉県のレー ダー基地に配属になったのは、昭和35年頃であったであろうか。2年後の、昭 和37年は、私にとっては、実に忘れがたい時期であった。 この地において、またもや、「九死に一生を得る」事態が発生したのである。そのことについて、述べたい。 シフト勤務(時間制交代勤務)が原則のレーダー基地は、24時間、間断なく 防空の任務が遂行される。当時、私のクルーは、前夜勤についていた。午後4時 から12時までが勤務時間である。 オペレーションは、地下に建設され、その内部は、部署間の連携が効率的に行 われるように整備されていた。内部の最前列には、巨大な透明航跡表示板が設置 され、二人の航跡表示員が常置する。この表示員は、レーダーが探知した航跡情 報をコンソール操作員から通報を受け、表示板に標示するのである。オペレーシ ョンの内部は暗く、航跡標示板のみが、ライトアップされて明るい。航跡情報は、 グリースペンで標示される。航跡情報とは、航跡番号、識別、機数、飛行速度、飛行高度及び矢印で示す方位である。その日も、通常のパターンで、業務が遂行されていた。標示板には、数10機 の航跡が標示されていた。航空路を航行する民間機であった。これらの航空機は、 識別員が、事前に入手した飛行計画と照合して、味方機と識別されたものであっ た。最上段中央に配置する米空軍先任指令官の顔もおだやかで、特に緊張感もなかった。 私の職務は、管制技術員、航空団で待機する緊急発進機の把握、緊急発進指令 の伝達、上級部隊への状況報告等が主であった。先任指令官の右隣に配置している。 航跡表示員が、やや緊張した面持ちで、航跡表示板の航空路以外の遠距離に、コンソール員から受けた初期航跡情報を標示した。1分後の探知された位置より、速度が測定される。当該機は、400ノット、あまりの遠距離のため測高できない。方位は、磁気方位100度。そのとき、識別員が叫んだ。「アンノウン!」1機の識別不明機であった。オペ レーション内に緊張が走った。表示員は、白色からオレンジ色のグリースペンに 標示を換えた。 やがて、刻々と当該機が侵入して来た。このまま、飛行を続けると、間違いなく、 領空侵犯である。私は、緊急発進予定機の状況を確認した。アラートハンガーで は、要撃機のパイロットが常時待機している。準備万端であった。 まもなくして、案の定、当該機は、所定のゾーンを超えて領空侵犯した。すかさず、先任指令官が低い、明瞭な声で叫んだ。「スクランブル!」緊急発進の 指令である。私は、すかさず、ホットスクランブル用の赤電話機の受話器を取り、 手順どおり、指令を伝達した。「ホットスクランブル!方位:280度、飛行高 度25000、交信サイト:○○○○チャネル○○!」すべて英語で伝達される。 アラートハンガーに待機しているパイロットから「ラジャ(了解)!」の返事が 返ってきた。 そして、数分後に、要撃機2機の陰影がレーダーに捕捉された。要撃指令官はすでに配置についていた。 発進した要撃機は、指令官によって管制され、不明機に向かって誘導される。 要撃機は、指令官によって管制され、不明機に向かって、識別の態勢に入った。 後方からの接近である。その距離20マイル。 やがて、パイロットから通報があった。「○○○○を確認!」某国の偵察重爆撃 機であった。いわゆる、その当時、情報収集のため飛来する「東京急行」であっ た。パイロットは、手順どおり、領空侵犯している旨の勧告を行った。そして、 写真撮影も欠かさなかった。 まもなくして、当該機は、区域外に離脱していった。要撃機は、任務を終了して、 帰途についた。緊張と興奮が、オペレーション内も平静さを取り戻した。このような対領空侵犯措置は、現在でも恒常的に行われてである。 私も、今起きた、領空侵犯措置の行動を終えて、ようやく、極度の緊張から開放 され安堵感に浸っていたのだが、…私の身体に何か異変が起きているのを感じた。今まで不明機の対応で、気づかなかったが、右わき腹が少し痛い。その痛み は体の表面ではなく、深く内部から伝わってくる。おかしい!今まで経験したことのない痛みである。極度の緊張で、引きつけでも起こしたのか?そう思った。 だが、そうではなかった。その痛みは徐々にわき腹から拡がっていく。 我慢できるだろうか、下番(仕事を終えること)するまでに、この痛みに耐える ことができるだろうか!非常に不安だった。前方の時計を見た。下番するまで1 時間はある。隣にいる先任指令官を見た。まだ、彼は、私の異常に気づいていな い。今まで重要な任務に対処したばかりである。ここは、耐えて、耐えて、おくびにも弱音を吐いてはいけない!日本人の意地を見せつけるんだ!私は、そう決心した。 しかし、痛みは、益々拡がってくる。すでに腹部全体に激痛が走っていた。自分 の顔に手をやると、ものすごく汗をかいていた。脂汗である。たぶん、顔面蒼白であったに違いない。 ようやく、私の異常に気づいた指令官が言った。「大丈夫か?どうしたんだ?」 「大丈夫!」私は答えた。 暫く時間が流れた。下番まで30分はある。指令官は私にチラチラ目をやる。 私は何でもないように、痛みを我慢して、前方の航跡標示板を注視する素振りをする。だが、心の中はそれどころではない。痛みに耐えることだけで、精一杯であったのである。 「駄目だ!誰か、アンビュランス(救急車)をお願いします!」私は、限界だと悟った。ついに、大きな声で、叫んだのであった。休憩中の隊員が2,3人駆けつけて来た。 そこまでは、私は記憶していたのだが、救急車で警衛所前を通過するまで、どうも意識を失っていたらしい。いま自分がどうなっているのか、ようやくわかってきた。不思議なことに、このとき、腹部の激痛は少し収まっていたのである。 町の外科病院に着いた。病院の名前は、鴨川病院であった。後で知ったことだが、 この病院の院長は、昔、軍医をやっていた人で、外科手術にかけては定評のある医師であった。内科、外科、肛門科などを一人だけでこなす名医であると聞いていた。 診察室に通され、診察が始まった。この時代、CT なんてものはない。聴診器頼りの診察である。「どうも肝臓が傷んでいるね。」と、院長は、私に徐に言った。 血圧測定、血液検査が行われた。この時、私の腹部は、異常なまでに膨張しているのがわかった。激痛はなおも続いていた。しばらくして、待合所に置いてあるベッド に横たわっている私のところに来るなり、院長が真剣な顔つきで言った。「手術しよう!」そして、こう付け加えた。「非常に危険な状態だ!」 私は、突然のことで、どう返事してよいかわからなかった。あまりにも突然すぎる!私は、判断に迷った。先生が手術する、と言っている。俺は危ないんだ!そう感じた私は、「お願いします!」と、はっきり返事したのである。今の苦痛から逃れるためなら、何だってやる、と覚悟したのであった。 年も押し迫った、忘れもしない12月30日のことであった。 手術は、翌日の午後から行われた。肝臓の手術で腹部を切開する!過去に、根室で脱肛の手術をしたことがあるが、同じような手術なのか。不安が募る中で、手術室に通された。 室内灯に照らされた部屋の中央に、手術台が置かれていた。この手術台、よく見ると、粗末な分厚い板であった。仰向けになったとき、手首、足首が位置するであろうと思われる部分に革製のベルトが取り付けられていた。これが、痛みで暴れるとき、手足を固定するベルトなんだ、と判断した。今式の手術台とは程遠い代物であった。これが、まないた、なんだと、直感した。 パンツだけをはいた寝巻きのまま、ベッドの上に載って、看護婦の指示どおり、 横向きになった。私の周りには、院長と4,5人の看護婦がいた。 黄色くなった院長の手が、私の背中の関節に触れる。腰付近から上方へと、背骨に触れている。ある一点で医師の手の動きが止まった。そして、数秒後に、激痛が腰に走ったのである!麻酔だ!痛い!心の中で叫んだ。次の瞬間、グググと針が抜かれた。 麻酔を打たれ、下半身が徐々に感覚を失っていった。そして、腹部の痛みは完全に消滅していた。看護婦達が何やら 、カチャカチャと金属製の音を出している。 あれはメスなのかな、と思った。 やがて、手術が始まった。私の意識は、鮮明で、何の苦痛もなかった。まるで、 今、手術されているのは自分ではない、と錯覚するほどであった。 手術が始まって、どのくらいの時間が過ぎたのであろうか。院長と看護婦達の低い会話がなおも続いている。 「痛い!」私は、突然、叫んだ。キリキリと、今までに感じたことのない激痛に襲われたのだ。その時の痛さは、焼け火箸を肌に押し当てた痛さに形容される。 いわゆる、強烈なやけどで、しかも、それは持続した。 後でわかったことだが 、この時、医師は、電気メスで開腹していたのであった。 予想もしなかった麻酔が手術の途中で切れてしまったため、院長の指示で、局部麻酔の注射が、開腹部周辺に打たれた。しかし、激痛は収まらない。看護婦が怒鳴った。「お腹に力を入れないで!」そう言われても、痛いのだ。無意識に腹部に力が入った。「駄目!」またもや、看護婦が叫ぶ。我慢できなくなった私は、 とうとう院長に怒鳴った。「先生、殺してくれ!」 後でわかったことだが、このときの私の状態は、次の通りであった。 院長は、開腹した時点で麻酔が切れたため、局部麻酔を多用して、手術を続行した。私が、激痛のため、腹部に力を入れると、開腹した部分から、小腸が、ボコボコと突き出して施術の進行に支障をきたしたのであった。当時、私は、重量挙げのトレーニングで腹筋を鍛錬していたので、私の腹部は強靭であった。そのことが、小腸を外部に突き出す誘引になったらしい。 局部麻酔が効かないのか、激痛は収まらない。脈を取っていた看護婦が、叫んだ。「脈拍低下!」このあと、私は何度も意識朦朧となっていった。 次の瞬間、上膊部の最上部に別のかすかな痛みを感じた。強心剤を注射されたのだ。私は、喘ぐ。右横っ腹から、熱い血がひたたり落ちるのをかすかに感じた。 相当な出血だ。私は、そう思った。また、意識が朦朧となってきた。そして、また上膊部に強心剤が打たれた。 輸血が行われている。私は 、看護婦のやり取りから 、そう判断した。後でわかったことだが、3本の輸血が行われた。 手術はなおも続く。痛みに慣れたせいか、 激痛が少し和らいだ。革ベルトで締め付けられた手足が痛い。今、何をしているのか。そのような疑問は、次から次へと押し寄せる激痛のため、吹き飛んでいってしまう。 やがて、縫合する段階に達したらしい。そんな気配が看護婦達の会話に感じられた。「もうすぐ終わるから、頑張って!」看護婦の一人が、私の耳元で、そう囁 いた。「ありがとう!」私は、声を振り絞って、言った。 その後の推移を私はよく覚えていない。気が付いてみると、私は、隔離室のベッ ドの上に寝かされていた。そして、手術された局部の激痛は収まっていた。だが、 まだ、麻酔が効いているのか、腹部の感覚はなかった。 少し開いたドアから、ラジオから流れているらしい「除夜の鐘」が聞こえてきた。 「ああ、今日は、大晦日だったんだ!」私は、死なないで、今こうやって除夜の鐘を聞いている。そう思ったら、涙が込み上げてきて、どうしようもなかった。 翌朝、院長が私の病室にみえた。「よ、頑張った。手術の途中で、君が持ちこたえられるか、それだけが心配だった。」と、院長は言った。そして、「手術を始めるのが、もう少し遅れていたら、非常に危なかった。胆嚢炎だった。」と、付け加えた。 しばらくして、消毒のため病室に入ってきた看護婦の説明によると、私の胆嚢には大きな胆石が6個できており、完全に胆嚢の機能を失っていたため切除した、ということであった。その胆石は、ホルマリン漬けされて、長い間、標本として病院に保管されていた。 私の、療養生活は、その後、半年も続いたため、隊務は、休職を余儀なくされたが、命の代償だったと思えば、今でも気も安らぐ。しかし、私は、本当に運が強 い。神様は、私をまだまだお見捨てにならないと、その時ほど強く思ったことはない。それからの私の生活のテーマは、体力づくりであった。ボディビルクラブを創り、 気の合った仲間と鍛錬に専念した。お陰で、体力は徐々に回復し、4年後には結婚することができたのであった。 私の腹部には、今なお、3段の腹筋を右斜めに、12針の傷痕が生々しく残っており、鏡を見る度に、あのときの修羅場が甦ってくるのである
第10話 ガンの告知
私の家系は、ガンで亡くなった人が多い。父方は、父が胃がん、伯母の肺がん、叔母の白血 病、母方は、叔父の肝臓ガンなど、ほとんどがガンであった。ガンは、病気ではなく、細胞の老化現象だと言う人が多いが、私も、そう思う。ガンは、外部から侵入した細菌などの病原菌によるものではないのだから、どうも正論かも知れない。私の場合も、ガンが原因で、他界する確率が、血統からして非常に高いわけであるから、常々、ガンについての認識と心構えは必要であると考えていた。3年前のある日の夕刻、私は、風邪特有の鼻づまり、咳、くしゃみ、肩こりなどの症状を覚えた。体温は3度を超えていたため、常備薬の風邪薬を飲んで、早々と床に入った。 その夜は、体温が37度まで上がったが、薬の効果は感じられず、悶々として、 寝付けないまま夜が明けた。 次の日は、痰が、ひっきりなしに出て、更に症状が悪化した。食欲はまったくなく、ドリンク剤を何本も開けた。 次の日も、その次の日も症状は変わらず、一向に好転しない。私は、年に1回は症状の重い風邪をひくのが常であったが、3日以上寝込むことはなかった。せいぜい2日ぐらいで床を離れていた。だが、このときばかりは、そうではなかった。 私も年老いたから、少し長引くのかな、と単純な気持でいた。従って、病院に行って診察を受けることなど、毛頭眼中になかった。もう少し経てば、よくなると信じて疑わなかった。 そして、5日目が過ぎ、さらに6日が経った。症状は、痰に血が混じるなど深刻? な状態であった。食欲はなく、妻との会話も元気がなく、自分でも体力が相当に衰退していることに気づいていた。 通院を決心したのは、7日目であった。私は、病院通いは慣れていたので、別に医者嫌いではなかったが、いつか風邪も治ると信じていただけに、家からさほど遠くもない病院通いの煩わしさを考えたら、とても億劫であった。しかし、状態はいっこうに、このままでは改善されない。思案の末、妻の同意を得て、医師に見てもらう決心をしたのであった。 病院に着き、所定の問診書に症状などの記載が終わって、待合所に案内された。 暫く待った後、看護婦に名前を呼ばれた。問診室では先ほど書いた症状を確認された。程なくして、診察室に入る旨のアナウンスメントがあった。 内科医の診察は、問診、痰、レントゲン検査の結果、「肺炎の疑い」と診断された。「今から入院してください。」と言われた。私の現在の症状から、もしかしたら即入院になるかも知れないと予想はしていたので、さほど驚くことでもなかったが、入院生活に必要な物を持参していなかったため、それらを車で家から運ぶ煩わしさが、そのときの衰弱した私には大きな苦労であった。 病室に通されて、暫く経ったら、点滴が始まった。長い間、満足な食事も摂れない私には、点滴は、まるで神の救いに思えた。ポタリポタリと規則正しく長い管から注入される栄養剤は、見ているだけで、元気が出るようだった。 約2時間くらい掛かったのだろうか。やっと終わった、と思ったら、また看護婦が「2本目を点滴します。」と言って、つなぎっ放しになったゴム管をはずして、2本目の点滴容器に繋なぎ直した。また、2時間も延々と掛かるのであろうか。 これには、さすがの私も閉口した。「点滴はこれで終わりですか?」と、私は、 我慢を抑えきれず尋ねた。そうしたら、看護婦さん、「いえ、今晩も、明日もずっとします。」と、平然と言った。さすがの私も、それを聞いて、完全に期待を裏切られ言葉もなかった。 夜9時の就寝時刻になって、同じ病室の患者は、早々に枕もとのライトを消して、軽く寝息をたて始めた。私の点滴は、なおも続いている。体を少し横にしたいが、 腰に力が入らない。ずっと仰向けの状態で、背中やお尻の感覚がなくなっている。 そのうちに、尿意をもようしてきた。何本もの点滴をされているから当然であっ た。私は、若い自分、飲み仲間に、「お前はビールをいくら飲んでも、トイレには行かないな。」なんて言われていた。膀胱が人一倍大きいのだ、と自負していたのだが………。今回はそうはいかないらしい。仕方なく、点滴をされながら、スタンドを押して、トイレに向かった。 その夜、2時間毎にトイレに行った回数は、4回であった。 翌日の午後、検査の結果が出た。診察室での医師の説明によると、痰の検査の結果は、「区分2」に該当した。ちなみに、「区分5」が、ガンである。私の場合、「注意を要する」程度で、場合によっては、進行性のガンに発展するということであった。そして、私の肺は、広い範囲に亘って、陰りがみられ、一部分に、かなり濃い陰影がある、ということであった。この原因は、今回の病状が惹き起こしたものなのか 、あるいは 、それ以前のものなのかは、更に詳しい検査が必要であるということであった。 点滴の効果が現われたのか、風邪の症状が徐々に緩和され、出された夕食は全部平らげることができた。 その次の日、胸部の断層撮影(CT)が行われた。私には、CTは始めての出会いであった。鎮静剤の注射が打たれ、異様な容器?の中に導かれた。撮影は、20分ぐらいで終わった。医師が、X 線でもその詳細が掴めない理由での判断で、CT ス キャンの登場となったわけなのかと私は思った。 外来患者の午前中の診察が終わり、昼過ぎになって、医師から検査結果の説明があるので、○番診察室に行くようにと看護婦に言われた。 診察室に入って椅子に座った。医師は、断層撮影のフィルム数枚を紙袋から取り出して、照明にかざして、暫くの間眺めていたが、「痰の原因は、気管支かもしれません。少し細くなっているので、気管支拡張症の疑いがあります。」 と言った。そして、更に付け加えた。「肺炎の疑いもあります。」と。私は 、この時、医師の診断を不信に思った。最新の医療器材である CTを用いて精査した結果の言葉が、「○○の疑い」であったからである。 私は、少々不満であったが、ただ、「そうですか。」と、答えるしかなかった。 そして、医師は言った。「やはり、全体的に肺に陰りがあります。」と言ったあと、別のフィルムのある一ヶ所をボールペンで指して、私に示しながら、「この 部分がどうも……もしかしたら…ガンかも知れません。」と、唐突に言った。 更に、「何とも言えませんが、抗生物質を使って、暫く様子をみましょう。詳しいことは、放射線科の先生に診てもらってください。」と、つけ加えた。 医師の言葉は、私には、予想もしていなかっただけに衝撃であった。「ガンかも知れない。」という医師の直接的な言葉は、常識的に考えても意外なことで、私には、「告知」以外の何ものでもなかったからである。ガンの告知は、まず配偶者などの身内の者に知らせるのが当たり前だと思っていただけに、医師の意図が 理解できなかった。 医師は、内科が専門であることは、事前に知っていたが、私は、この時は、やはり呼吸器科の先生に診て貰うべきだと思い、その後何も言わずに退室したのだった。 病室に戻り、ベッドの上に横になった。診察室での医師とのやりとりが、真実性を帯びて思い出される。あの医師は、「ガンかも知れない。」と言った。あの時は 、私自身、さほど深刻に受け止めてはいなかったが、今こうして、静かに考えてみれば、事の重大さに敏感に反応し、次第に胸が張り裂ける思いに駆られて行った。 ガン!もし、実際にそうだとしたら、どうなるんだ?何時まで生きられるのか ? 医師が、あと何ヶ月の命と言うのは何時のことなのか?私は、自問自答を繰り返しながら、天井の照明に顔を向けていたが、しかし、眼差しは虚ろで、心は別の所にあった。 夕食が運ばれてきた。同室の患者は、自分の膳をベッドに運んで、食べ始めた。 私は、食欲がないわけではなかったので、心に鬱積したモヤモヤを振り払い、自分の膳を一気に平らげたのだった。 その夜、私は一睡もしなかった。子供たちのこと、孫のこと、妻のこと、そして自分の亡き後のことなどを考えていたら、時間が経つのも完全に忘れていたのである。 思いは、走馬灯のように、子供時代から今に至るまで、その生き様が、次から次へと拡がっていった。眠らなきゃいけない!という自責の念は、私にはなかった。 静まり返った病室に、あちこちから、就寝患者の寝息が流れてくる。時間は、すでに零時を過ぎているのだろう。 近くの病室から、患者の呼び鈴が鳴った。暫くして、看護婦の靴音がパタパタと聞こえてきた。どうしたのだろう?看護婦の声がかすかに聞こえてきた。どうも、 患者の点滴のパイプが外れたらしい。処置を終えた看護婦が、静かに戻って行く気配をそっと感じた。 私の想いはなおも続いて、止まることを知らない。墓地はどうする?遺書はどのように書いたらいいのか?葬儀は?走馬灯はなおも回り続ける。 時刻は何時なのか? また、看護婦の足音が聞こえてきた。これで4回目だ。看護婦さんも大変だな、と思いながら、また自分のいない行く末が気になる。 静かに起き上がり、トイレに向かった。看護婦の詰め所の前を通ると、3人の看護婦がテーブルをはさんで、何やら相談していた。軽く会釈をして通り過ぎ、トイレで用を済ませて、病室に戻った。看護婦さんも大変だなと、また、そう思った。自分のベッドに戻って、横になる。やはり、あのことが気になった。 ベッドに戻って、どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。想いに耽っていたため、 気がつかなかったが、窓の外が段々と明るくなってきていた。 腕時計は、すでに5時半を示していた。想いは、これまで自分が辿ってきた、「命拾い」の数々の出来事に及んだ。あの時、何故自分は助かったのだろう。どう見ても助かる命ではなかったのに。それも一度や二度ではない。ざっと数えて、10回を超える。なのに、私はまだこうやって生きている。今度も、私の神様は、 私を助けて下さるのか。私の命拾いの歴史は、今に始まったことではないが。幼少の時分から、私は何か、大きな力で、命を護られている。私は、そう考え始めたのである。ならば、何事にも潮時がある、と考えるのが自然のように思
えた。 神様は、私をここまで生かし続けて下さった。本来ならば、とっくの昔、神の御心のままに、私をお召しになった筈である。そうして、私は、わが身を、神に委ねるべきだと、ようやくにして、このように考え始めたのであった。つまり、悪い言葉で言えば、一種の開き直りである。だが、私にとって、このことは、悟りを開くのに?貴重な、長い時間の経過だったのである。 枕もとに流れていた涙は、今はない。あるのは、神に対する感謝の念、ただそれだけであった。看護婦が、検温に来るまで、私が、その後、ぐっすり熟睡することができたことは言うまでもない。
第11話 大腸内視鏡検査
毎年、大腸がんの検便検査受検のため、市の保健相談センターに出向くのが、 私達夫婦にとっては習慣になっていた。 今年も、半年前に受検した。今までは、私達二人に異常が認められなかったが、 今年は、私だけに封書が来た。その意味は、検便検査で異常が認められて、精密検査を受ける必要があるということであった。 私は、その時の検便検査では、便採取の数日前から痔が原因?で排便の際、微量ながら出血していた。従って、便の採取日にもその出血が続いていたのだ。 私は、便の採取の際、血液の混じらない部分を、採取棒で規定量を採り容器に収めた。本来ならば、大腸がんの検査のための便の検査なので、「潜血反応」を調べることから、血液の付着した便を採取するのが、理に叶った方法であることは十分わかっていた。だが 、私は 、敢えて、血液の付着していない部分を採取した。 その訳は、排便の際の出血は、痔が原因で、多分、内痔核が固い便で損傷を受けたためだと信じて疑わなかったからである。 精密検査は、通知状には、早
い時期に受診する旨記載されていた。二日後は、 大阪の孫が耳鼻咽喉科のある手術を受けることで、その看護のため大阪に発つ予定であったが、思案の結果、私の精密検査の受検時期を延ばさざるを得なかった。 孫の施術は順調に進み、病状も安定し、体力も日増しに回復したため、ちょうど2週間目に大阪を後にしたのであった。 帰宅して気になるのは、やはり大腸の精密検査のことであった。保健相談センターより紹介された病院を訪れ、相談を受けたのは、一昨日であった。 その日、錠剤(下剤)とニフレック(経口腸管洗浄剤)及び2リットル容器を受け取って帰宅し、指示どおり、錠剤等を服用した。 翌日の早朝、時計を5時半にセットして、起床し、2リットルの洗浄剤を、一気に飲み干した。ビールでも、1リットルのぐい飲みは、大変なのに、2リットルの弱食塩水?は、精神的な拒絶反応を伴って、容易ではなかった。 しばらくして、最初の便意を催した。これだ!看護婦の話では、7~8回は、トイレに通うと言う。 だが、便の状態
は、通常型であった。飲用した下剤や洗浄液の効果は現れていなかった。 だが、それから1時間後に、やや、強烈な排泄欲に駆られ、トイレに駆け込むと、やや茶色がかってはいたが、多量の洗浄剤?がジャーと勢いよく流れ出た。それからが、大変であった。5~10分間隔で、トイレに走りこむ。5回目を過ぎた頃から、肛門付近がヒリヒリして痛かった。トイレに行く頻度は、徐々に弱まり、最終便と思われる波を感じたのは、10時前だった。ああ、これで終わりか!私は、深く溜息をついた。 病院に電話したら、午後の診察になるので、12時頃来なさい、と言う。約束の時間に受付を済ませて、消化器科前で待つこと1時間、看護師に名前を呼ばれた。医師の診察もないまま、奥のベッドに通された。ベッドは見慣れた手術台ではなく、入院患者用のベッドに、白いカバーがかけられていた。ベッドのすぐ近くには、内視鏡からの映像が標示される、名前はわからないが、液晶ディスプレイを備えた機器が置かれていた。この機器は、私が、ベッド上で横向きになったとき、 私の背後に設置されていたため、検査の推移を、私自身一部始終確認することはできなかった。 検査用の、お尻部分が切り取られた紙パンツを穿いて、ベッドに横になった。まもなく、内視鏡が挿入しやすいように、粘液性のペースト?が看護師によって肛門付近に塗られた。そして、医師が入室してこられた。挨拶の後、「これから始めます。」と、優しく言って、内視鏡を私の肛門に挿入したのであった。 看護師に言われるまま、腹式深呼吸をして、硬直した自分の体の緊張をほぐした。 そのためか、器具は、スムースに移動しているかに思えた。だが、その後の、医師の「終わりました。」の言葉が、私の耳に入るまでの25分間、私は、意識がなかったのであった。 あとで、わかったことであるが、器具を肛門に挿入される際、看護師が、私の左前腕に注射をした。どうも、それが私の意識を失わせるものであったらし
い。 ともかくも、検査は終わった。紙パンツを所定の籠に脱ぎ捨て、衣服をまとい、 医師の元へ案内された。医師は、一言「異常はありません。」と言ってくれた。 私は、やや不安になり、「以前より、便が少し細くなりましたが、これは、持病の痔の影響でしょうか?」と尋ねたら、医師は、「いや、大丈夫ですよ。」とだけ言われたので、私も安心して、それ以上のことは何も言わず、お礼を言って、 退室したのであった。検査前は、結果は明らかに、プラスを宣告される、と思い込んでいただけに、調子はずれの反面、やはり嬉しかった。 晴れ晴れした気持ちで会計をすませ、病院の玄関脇に植え込んだ5分咲きの桜を横目で見ながら、車に乗り込み、小雨の降る中、「田園」をハミングしながら、 帰途についたのであった。 またも、私の神様は、私を救ってくださった!
第12話 ガン罹患の家系だから避けられないのか!
私の家族は、叔父や叔母もガンが原因で他界した。だから、常々ガンの脅威については一時も忘れることはない。今回のテーマはそのことを身をもって体験したので取り上げたい。令和元年8月初旬、排便の都度、僅かな潜血と痛みを感じるようになり、妻と相談して、ネットで市内の肛門科クリニックを調べたらすぐに見つかり、友人の勧誘を取り付けて、受診した。若い時分は、寒い北海道での生活で、時々発症するオペを伴う痔疾に悩まされ苦労した経験もあるので、嫌な予感がして受診したら、CT,MRIの検査結果は初期の大腸がんの宣告であった。オペは、腹腔鏡下により、3名の医師が行うと聞いて安心した。そして、主任看護師の説明では、このオペは、腹部に大きな穴を
開けず、僅か数センチの穴を2か所開けて行うという。麻酔時間は長いけど心配しないで寝ていてくださいとのことで、開院後先進のオペが6体目となる自分の身を、安心してお願いしたのであった。そして、入院1か月後、計画通り、オペが行われた。3人の医師と看護師達によるオペは全身麻酔で行われた。手術台の上に身を置いて、何と6時間も、無意識、無感覚の世界は、術後、多分二度とは味わえないと思ったら涙がこみ上げ、生きていることの有難さをしみじみと感じたのであった。術後は、スト-マとして、終生、障害者としてのハンディに捉われず強く生き続けたい。私の生きる目標は、100歳。今、87歳なので、あと13年はヘルスケアに日夜心がけて目標を達成し
たいものだ。神様、ありがとう。
第13話 口蓋扁桃を巡っての盥(たらい)回し
事の始まりは、今を去る平成31年2月6日、喉が腫れぼったく、声が擦れるなどの違和感があったので、鹿児島県鹿屋市内の石 川耳鼻咽喉科に通院した。初診であった。医師は所定の診察を開始した。しばらくして、医師が私の年齢を聞かれた。「82歳」と即 座に応えたら、少し間をおいて、「……これほど口蓋扁桃が肥大化した高齢者を診るのは初めてです」と言われた。そして、次に言われ たことは、「申し訳ありませんが、照会状を書きますのでこの病院 で診て貰ってください」と言われ、言いようのない絶望感に襲われ て病院を後にしたのである。そして、数日後に紹介された同じ市内 にある大きな総合病院の耳鼻咽喉科を訪れた。受付で受診の受付を 済ませて、2階にある耳鼻咽喉科病棟に着いたら、待合室に誰一人 患者らしい人の姿はない。嫌な予感がして、受付室の小窓を開け、 「お願いします!」と、大きな声で怒鳴ったら、看護師が現れた。 そして「ちょっと待ってください」と言われ、5,6分経って、やっと診察室に通された。診察は、前回と同じようなルーティンで行 われた。内視鏡らしいもので喉の隅々を検査されたようで、前回と同様な感触だった。暫くして、医師が言われたことは、前回の医師 と同様で、全く自信のない言葉で終わった。「口蓋扁桃が異常に肥 大化していて、処方がわかりません。」と。それで、「それじゃ、暫く様子を見て、変化がなければ、また参ります」と申し上げ、足取り重く病院を後にしたのである。それから、数日後、症状が更に悪 化しているようで、手鏡で口を開けて喉の奥を眺めたら、気道と思 われる穴の左右の高く聳えた肉の塊、これが肥大化した扁桃と思いつつ、予め用意したカメラで撮影した。そして、口内の変化は更に 悪化しているらしく、食べたものが容易になったのかと自問自答が続 く。長い時間かかって食事が終わる。明らかに症状は悪化していると判断し た。頭の中は、次の戦いに向かって動き出した。「そうだ!もう一か 所ある!」 それ
は、既に他界した妻の母が口内癌で通っていた医院である。「そこが望む最後の切り札か!」 そして、すぐに行動 開始、共に社交ダンスで楽しんだ女医さん、そして信頼の厚い旦那さん先生のお二人が温かく迎い入れてくれました。診察では、今までの他での受診の経緯は伏せて、自覚症状を訴え、診察は諸検査な しで進行した。そして、先生の最後の所見は、「紹介状を書きます ので、○○市の国立病院に行ってください」とのこ
とだった。 この時ほど、激しいショックを受けたことはない。頭の中は真っ白。最後の望みが絶たれたのである。 数日後、妻と共に、止む無 く、1 時間車を運転して国立病院へ。今までとは異なる見知らぬ所 での寂しくて不安な受診は、今でも忘れることはない。診察は、あっけないもので、型通りの、何の期待も湧かないものでした。「検査 しましょう」ときた!その時、急に、前の医院での診断で、手術し かないと言われたことが頭をよぎり、咄嗟に「手術してください!」と大声でお願いした。そうしたら、医師は、冷静に「手術し たら死にますよ!」と言われたのである。この時は言葉では表せないほど心が動揺して、目の前は真っ白!検査が何の意味も持たない ものと咄嗟に判断して、「わかりました。検査は結構です。」と冷静 になって丁重に断り、所要の支払いをすませ、早々と国立病院を退 散したのである。このようなことが起きてからも、喉の状態は依然 と変わらず、症状は固定化したのか、幸いにも大きな変化もなく推 移した。医者離れしたこの喉をどうやって治すか、いろいろ考えた 結果、ある前と同じ手順で施灸を続け、アタリも出て、施灸は終わった。そして、結果は、前回と全く同じで、感激と感謝で容体は回 復した。そして、時変わって令和6年11月某日。年齢は87歳。 喉に違和感が!今回は、前年とは異なった症状である。これまで は、自分でも容易に確認できる口蓋扁桃肥大であったが、今回はそ うではなかった。こんな初めて転居してきた町に咽喉科の医院があるのか、心配でネットで調べたらすぐ近くにあった。早速症状を電 話で告げ、通院して診断を受けたら、結果は、何の処方もなく、紹 介された隣の市の大きな総合病院行きとなった。 そして、指定された受診日まで2週間近くあるので、伝家の宝刀!灸を、今回は艾 の直火ではなく、せんねん灸にした。施灸の場所は、ツボを専門書で調べ、広範囲に拡げた。予定通り、1週間忘れず施灸に努めた。 結果が好転するこ
とを祈って。さて、指定された日時に耳鼻咽喉科 を訪ねたら、諸検査のあと CT による撮影を終えて、病状は、ガン 転移の可能性は少ないと同行した娘に説明され、紹介状を手渡されて診察は終わった。またも、盥か!と憤慨し、怒りを抑えることができなかった。 最後に紹介された総合病院の血液腫瘍内科では、 半日近くかかって徹底的に検査が行われ、来週その結果が判明するとのことだった。結果が兆と出るか凶と出るか待
ち遠しい!
あとがき
人の死は、年齢に関係なく、ある日突然やって来る。そして、言えることは、人はその死を意識しながら迎えるか、それとも、意識する暇もなく死を迎えるか、 このどちらかの一つを選んで人は皆世を去るのであろう。人は何故死ぬのか。生まれてきたから死ぬのである。単純に言えば確かにそうであろう。ならば、生まれたときと同じように、無意識のうちに世を去ることが自然に叶った往生なのであろうか。 人間は、自殺や事故による死を除いて、自分の生命をコントロールすることはできない。人は、それを運命と諦め、素直に死を受け入れる。 私の、これまでの生涯は、明らかに、「九死に一生を得る」出来事の繰り返しであったような気がする。成り行きからして助かりそうもない命が、思いがけなく助けられる。これらの事象を通じて、私には、何か計り知れない大きな力が私に働いて、自分の生命をコントロールしているのだと感じてきた。 人の寿命には、長短があるが、たとえ、短くても、生涯を楽しく幸せに送ることができれば、それに越したことはないと思う。 自分の寿命は短いのだと絶えず認識して毎日を精一杯生きる。そして、精一杯生きるためには 、それなりの生きる努力を怠らない。これが、人の生き方なのかも 知れない。 私は、これからの私の余生は、私にとって、「おまけの人生」であると常に認識している。そして、何時お迎えが来てもよいように、心身の準備だけはしっかりとして おきたい。
初版 2004年(平成16年)4月1日
追録 2024年(令和6年)12月7日
著者 水島 啓介
(参考)Copilotにより要約された内容次は、著者が人生で何度も死の危機を乗り越えてきた体験を綴った自伝的エッセイ集を、Copilotにより要約された内容の主なポイントをまとめたものです。1 全体のテーマ「神の介入」や「運命の分かれ道」を感じるような、著者の生死に関わる体験が連続して描かれています。戦争、貧困、家庭内暴力、病気、事故など、過酷な状況の中でも生き延びてきた記録。人生の尊さと奇跡的な生還への感謝が込められています。2 各エピソードの概要母の洗濯中に川で流されるが、奇跡的に助かる貧困の中で頭部の腫瘍を手術、命を救われる父の暴力と戦争の記憶、弟の自殺など家族の悲劇危険な川遊びで溺れかけるが自力で脱出空襲警報中に釣りをしていて、機銃掃射に遭うが生還不発弾が家の近くに落ちるが爆発せず助かる潮流に流されるが、地元の知識で生還トンネル塗装中にシンナー中毒で意識を失うが回復自衛隊勤務中に腹部の激痛で緊急手術、命を取り留める肺炎の診断から「がんかもしれない」と告げられた夜の葛藤大腸がん検査で異常が見つかるが、結果は問題なし扁桃腺の異常で複数の病院を回るが、最終的に安定3 メッセージ性「生きることの意味」を問いかける内容であり、読者に命の重みを感じさせる。苦難の中でも希望を持ち続ける姿勢が描かれている。医家族、社会の支えがいかに重要かを実感させる。
ご拝読ありがとうございました